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ギロチンとフランス革命 世界史小ネタ第77回

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革命さなかの1792年、パリ選出の議員でもあったギヨタン(Guillotine)医師は「刑罰の平等」を主張し、受刑者に公平かつ迅速に執行しうる処刑方法を提案しました。「ギロチン」の誕生です。

それまでの「斬首」と言えば、死刑執行人が剣や斧を力任せに振り下ろすという原始的なもの。ピューリタン革命のチャールズ一世の処刑もそうでしたね。執行人の手元が狂ったり、一度でスパッと切り落とせなかったりと、切られる側にとっては「災難」が多かったようです。

立法議会でのギヨタン医師の熱弁がおもしろい。「この機械を用いれば、私はあっという間に諸君の首をはね、しかも諸君は全く痛みを感じません」。

ギヨタンはルイ16世をチュイルリー宮に訪ね、そのアイデアを自慢げに披露しました。錠前いじりを趣味とする国王は刃は三日月より斜め真っ直ぐのほうがよいだろうと専門家の立場からアドバイス。この意見は採用され、その切れ味は半年後国王自身の首で証明されることに。

死刑が簡便になると、比例するように死刑者の数も増えました。有名なところでは、入浴中のマラーを殺した女シャルロット=コルデーや王妃マリー=アントワネットなど。ラ=マルセイエーズを歌いながら刑場に向かった20人のジロンド党員たちの処刑はわずか40分あまりで終わりました。

1793年の3月から4月のかけては、エベール派やダントン派の大量処刑が相次ぎました。ダントンは最後まで悪態をつき続けたとか。最後の独裁者ロベスピエールが断頭台の露と消えたのが7月28日。

革命の間にパリで処刑された人の数は犯罪者も含めて2900人に達しました。うち370人は女性。中には質量保存の法則で有名な化学者ラボアジェの名も。彼は旧政府の徴税請負人あったことを理由に処刑されました。

ギヨタン医師の死後、子孫たちは忌まわしい家名を変えましたが、ギロチンは残りました。1939年に非公開となったものの、1976年まで現役として活躍。1981年ミッテラン政権が国民の反対を押し切って「死刑廃止」を宣言したとき、ようやく博物館に収められることになりました。

参考にしました

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リンク

Http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/indexx.html
「フランス革命大解剖」。フランス革命の事なら何でもと言うサイト。

Http://www.whitbyhs.cheshire.sch.uk/curric/
チャールズ1世の処刑場面の図を集めたイギリスの高校のサイト。

Http://www.sepulchritude.com/chapelperilou
ギロチン史。多くのギロチンの図があります。

Http://www.metaphor.dk/guillotine/
ギロチンのホームページ。

Http://www.mtholyoke.edu/courses/rschwart/
ルイ16世の処刑を描いた絵があります。