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大陸横断鉄道 世界史小ネタ第68回

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カリフォルニアの金は20年あまりで掘り尽くされました。しかし男たちの熱狂とエネルギーは「大陸横断鉄道」という新しい鉱脈を残しました。「西部」誕生の秘められた歴史、第2弾です。

金掘り人たちの多くは無一文で西部を去りました。運良く金を見つけても酒や博打で散財する者が多かったとか。そんな彼らに食料や雑貨を売り歩いた人たちが、実はゴールド=ラッシュの隠れた成功者でした。リーランド・スタンフォードもその一人。

スタンフォードとその仲間たちは貯めた金を出し合って、セントラルパシフィック鉄道会社を設立しました。時は南北戦争(1861~)の真っ只中。その少し前に、西部との連携を重視したリンカンが大陸横断鉄道にゴーサインを出したのです。

1863年、線路敷設工事は2つの鉄道会社が大陸の東西から挟み打つ形でスタート。セントラルパシフィック社はサンフランシスコ側から東を目指し、ユニオンパシフィック社はネブラスカのオハマから西に一直線。しかし西側にはシエラネバダ山脈の峻険が待ちかまえていました。戦争中のことで労働者は集まらず、工事は中断また中断。困り果てた会社は反対を押し切って、当時西海岸に大量に移住してきた中国人の採用に踏み切りました。

当時のアジア系移民の信頼度はゼロ。仕事は雑用係だけでした。しかし彼らはすぐに器用に作業車を操り、岩盤を掘って周囲を驚かせました。しかも白人以上に勤勉で従順。会社はサンフランシスコ中の3千人の中国人を集めきると、それでも足りず極東にまで募集の手を広げる始末。会社の労働者の90%は中国人で占められるように。

切り立った絶壁での爆薬を扱う危険な作業は中国人の独占場。冬のシエラネバダでは、雪崩に悩まされながら、トンネル掘りに従事。数千人の中国人の生命と引き替えに、線路は東へ進みました。彼らの賃金は当初1日1ドルぽっきりでしたが、やがて1月35ドルまで上昇しました。

1869年の5月10日、東西から出発した2つの線路がユタ州ソルトレイク近郊のオグデンで連結。沸き返る人々の写真は今も会社のホームページの扉に。しかし、この難工事を支えた中国人労働者の偉業を讃える声はかき消されたようです。その後、サンフランシスコの中国人たちは白人たちの妬みから激しい迫害を受け、苦難の道を歩みました。「サンフランシスコの人口の40%が中国人で街全体がチャイナタウンみたいなもの」になったのはつい最近の話なんですね。

莫大な富を手にしたリーランド・スタンフォードは「鉄道王」の名をほしいままに。しかし旅先で才能豊かな息子を亡くしてしまいます。失意の夫妻は息子の遺志に沿うようにと教育事業に資産を投げ出しました。広大な彼の農場にスタンフォード大学が設立されたのは1891年。戦後大学の一角が工業団地として卒業生たちの事業に開放されましたが、それが今日のシリコンバレーに発展したことはあまりに有名な話ですね。

参考にしました

大陸横断鉄道―政商スタンフォード
大森 実

講談社
1986-08
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リンク

Http://cprr.org/Museum/faster.html
セントラルパシフィック社の公式サイト。マップ類からフォト、当時の新聞記事、リンクまで膨大な資料が揃っています。

Http://www.uprr.com/
セントラルパシフィック社と競争したユニオンパシフィック社のサイト。こちらにも資料がたくさんあります。

Http://www.sfmuseum.org/bio/stanford.html
リーランド・スタンフォードを紹介しています。

Http://www.stanford.edu/dept/SUMA/
スタンフォード大学の公式サイトの一部。スタンフォードファミリーを簡単に紹介しています。

Http://cprr.org/Museum/
セントラルパシフィック社のサイトの一部ですが、当時のタイムテーブルです。駅から駅の距離と同時に、駅の海抜まで記載されています。

Http://www.sfchinatown.com/Welcome.html
サンフランシスコのチャイナタウンの公式サイト。中国人の苦難の歴史を読みとることができます。