19世紀の半ば、ティークリッパーと呼ばれた、快速大型帆船が海面を切り裂くようにインド洋を駆け抜けました。広東の新茶を1日も早くイギリスに運ぶために。
船体の幅を切りつめ、船首を前かがりに突きだし、マストを少し後ろに傾けた独特のスタイル。スピードを極限まで追究した結果でしょうか。3本のマストに数十枚の帆を張り巡らし、風をめいっぱい孕んで走る姿は咲き誇ったバラのよう。ティークリッパーレースは木造帆船時代の最後を飾った一大イベントでした。
17世紀に宮廷で広まった飲茶の習慣は、18、19世紀にはイギリス社会の隅々に浸透しました。かりかりに焼いたパンにミルクティーというイギリス式朝食がうまれ、ヴィクトリア朝時代にはアフタヌーンティーが定着。道具にもイギリス独自の工夫がうまれました。例えば受け皿(saucer)は東洋にはないものでしたが、イギリス人はこれに熱い紅茶を移して飲んでいたとか。カップに取っ手をつけたのもイギリス人。1765年ウェッジウッドは初めて取っ手のついたティーセットを制作し、宮廷に卸しました。
クリッパーが最初に造られたのはアメリカ。1848年にゴールド=ラッシュが始まると、金に飢えた男たちをニューヨークからホーン岬(南米南端)経由でサンフランシスコへ運びました。1849年にイギリスで航海条例が廃止され、外国船の参入が認められると、クリッパーはサンフランシスコから太平洋をまたいで(30日前後で)中国へ。米国船籍オリエンタル号が中国の茶を97日でロンドンに運び、従来の記録を大幅に塗り替えると、イギリスでもクリッパー建造ブームに。
アメリカが南北戦争で忙しくなると、イギリス船同士が日数を競い、本格的なティーレースが始まりました。40隻が参加した1866年のレースはとりわけ有名で、3隻のクリッパーが99日間でほぼ同時にロンドンについたとか。イギリスのティークリッパーのほとんどは1850年から1870年の20年間に集中して造られていますね。
1869年にデビューした「カティーサーク」は今もロンドンのグリニッジに保存され、博物館となっている名物クリッパー。しかしカティサークが進水した年は、レセップスがスエズ運河を開いた年でもありました。エンジンを搭載したスティール船が運河を利用して60日間で中国とイギリスを結ぶと、木造帆船はもはやライバルではありませんでした。
アイルランド生まれのリプトンが、「農園からティーポットに」を合い言葉に、セイロン島で大規模な農園を開き、安価な紅茶を食卓に供給し始めたのが19世紀末。ティーレースは過去の語りぐさとなり、商業帆船の時代は幕を閉じました。しかし今ホームページ上で蘇る大型帆船の華麗な姿に思わず見とれてしまうのは私だけでしょうか。
参考にしました
英国紅茶論争 | |
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大帆船時代―快速帆船クリッパー物語 | |
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リンク
Http://www.eraoftheclipperships.com/