「缶詰」が誕生して200年。食生活を根本的に変える画期的な発明でした。しかし缶詰が一つの国の運命を変えるとは誰が予測したでしょうか。
肉や野菜を密封した容器の中で加熱殺菌すると腐らない、という原理はすでにフランスで実用化されていました。しかし今日のようなブリキ缶は、イギリス人ピーター=デュラント(Peter
Durand)によって1810年に発明されました。デュラントは日本の「茶筒」をヒントに缶詰をつくったとか。
ブリキはオランダ語の「blik 」から。Bliken とはサクソン語で輝くという意味。スズメッキされた鉄板はたしかに光沢を帯びてさびにいですね。イギリスはコーンウォール地方という当時有数のスズ鉱山に恵まれていました。
この画期的な発明品はしかしなかなか普及しませんでした。理由は初期の厚い缶を開けるよい方法がなかったから。しかたなくハンマーとのみで、時にはライフル銃をぶっ放して無理矢理こじ開けたとか。「缶切り」(can
opener )が発明されたのは50年後のアメリカ。南北戦争でその携帯性、保存性が実証され、やがてアメリカ人の日常生活にも溶け込んでいきました。このとき生産量は4,000万缶を越えるほどに。
コーンウォールだけではスズを供給しきれなくなったイギリスは、新たな鉱脈を世界中に探し求めます。そこで注目されたのがマレー半島。ここはかつてイスラム系の「マラッカ王国」が栄えたところ。しかし16世紀以降はポルトガル人、オランダ人が進出して交易圏の争奪戦を演じていました。イギリスは1824年の英蘭協定でマレー半島を勢力下に納めるとスズ鉱山をしだいに吸収・合併。やがてイスラム系土侯国を併合してマレー半島全域をを植民地に。
問題は鉱山で働く労働力の確保でした。シャム(350万)やジャワ(500万)と比べても当時のマレー半島は人口50万という極端な過疎地。そこで中国南部の広東や福建などから大量の中国人をクーリーとして連れてきました。1930年代には中国人の人口は238万人にふくれあがり、マレー人を追い越すほどに。ゴム園の労働者として連れてこられたインド南部のタミール人たちとともに、このとき多民族国家の原型がつくられました。
缶詰や自動車が普及するとともにマレー半島はインドと並ぶイギリスのドル箱に。マレーシア(マラヤ連邦)は1957年ようやく独立を果たしますが、いまなお植民地時代の枠組みを引きずっています。強力なリーダーシップで多民族国家を率いるマハティール首相が「ルック=イースト政策」を掲げた真意はどこにあるのでしょうか。
参考にしました
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リンク
Http://www.jca-can.or.jp/handbook/